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執筆者の写真Masataka Onuki

記憶に残る横浜高校の愛甲猛と川戸浩。1980年夏、僕が高校野球を見始めたころ

僕が初めて高校野球を意識して観たのは1980年の第62回大会。高校1年生の夏だ。同じクラスの友人が野球部に所属していたことで、それまで“お兄さんたち”のものであった高校野球が、一気に身近に感じられるようになったのだ。


横浜高校の名前を高校球界に知らしめた第62回大会


当時横浜に住んでいた僕が注目していたのは、愛甲猛を擁する地元・神奈川県の横浜高校だった。横浜高校はその2年前、愛甲が1年生エースとして夏の甲子園に出場している。このときは3回戦まで進出したのだが、その後はなかなか県大会突破ができずに甲子園出場とはならなかった。というのも当時の愛甲はいわゆる「不良」で、チームの輪を乱すワンマンな性格だったという。合宿所を脱走するなど、野球と距離を置く期間もあったようだ。


最近になって愛甲が自身のYouTube「野良犬チャンネル」で当時を振り返り、「甲子園以降、肩を痛めていたが誰にも言えず苦しんでいた」こと、「1年生で甲子園に出て天狗になっていると、いわれなき中傷を受けていた」ことで腐ってしまい、合宿所を脱走したのだと語っている。脱走中は不良仲間のもとを転々とし、ついには補導されてしまうのだが、そのときに引受人として迎えに来たのが、渡辺元智(もとのり)監督(当時)だった。そして渡辺監督の熱心な指導もあって、愛甲は再び野球と向き合うようになる。背番号11、球拾いからの再スタートだったが、高校3年の夏、エースナンバーを取り戻し、ラストチャンスで再び甲子園への切符を手にする。


結果から言うと、このときの第62回大会で横浜高校は、初めて夏の甲子園を制する。横浜高校は松坂大輔や涌井秀章ら、数多の名選手をプロ球界に送り出すなど、いまでこそ全国的に高い知名度を誇っているが、その原点がこの大会であり、愛甲猛だったといっていいだろう。


第62回全国高校野球選手権大会、横浜高校が初めて夏の甲子園を制した瞬間。そこはかとなく漂う違和感の正体は、記事後半にて


愛甲の陰に隠れたもう一人の左腕投手は超努力家タイプ


愛甲中心で回っていた当時の横浜高校だが、実はこの大会で優勝の瞬間にマウンドに立っていたのは、愛甲ではなかった。横浜高校には愛甲と同じ学年に、もう一人ピッチャーがいた。愛甲の背番号が11だった期間に、エースナンバーを背負った川戸浩だ。左サイドから思い切り腕を振って投げる投手で、普通の学校ならエースクラスの素材と言われていた。しかし同学年には、同じ左腕の愛甲がいる。周囲の期待が愛甲に向くのは仕方のないことだった。


前述したYouTubeで愛甲が「自分がプロに入ってからも、アイツほど走りこんだやつは見たことがない」「毎日300球は投げていた」と認めるほど、川戸は練習熱心だった。ある日、コーチの指示で、学校の裏手にある階段の上り下りの練習を一人で黙々とこなしていたが、いつまでたっても終了の連絡が来ない。なんとコーチが、川戸に練習を指示したことを忘れて帰宅してしまっていたのだ。


これにはさすがの川戸も我慢できずに、合宿所に書置きを残して実家へと帰ってしまった。渡辺監督は川戸の実力を高く評価していたものの、気持ちが愛甲中心になっていたことを深く反省。川戸のもとを訪れ必死に説得して復部させている。


優勝候補との死闘を経て、荒木大輔の早稲田実業と頂上決戦


話を第62回大会に戻そう。甲子園での横浜高校は、愛甲の力投で順調に勝ち進む。川戸も1回戦の高松商戦(香川)で1/3回、2回戦の江戸川学園(茨城)戦で2回、愛甲をリリーフする形で登板している。3回戦の鳴門(徳島)戦は島田茂(元ロッテオリオンズ)との投げ合いを制し、0-1で愛甲が完封。


準々決勝の相手は、前年に春夏連破を達成している、優勝候補の最右翼・簑島(和歌山)。これも2-3で愛甲が完投勝利。渡辺監督は、箕島の尾藤公(ただし)監督(当時)を倒すことに執念を燃やしており、この勝利をことさらに喜んだそうだ。


そして準決勝の天理(奈良)戦は、愛甲にとって「一番きつかった試合」となった。土砂降りの中での試合は、7回表に天理がスクイズで先制。リードを許した直後にこの日2度目の中断となる。7回裏に得点できなければ、雨天コールドの可能性も強まる。しかし試合再開後の7回裏に相手三塁手のエラーをきっかけに横浜がなんと逆転。残り2イニングを気力で投げ切った愛甲が3-1で完投勝利している。ちなみにこのときにエラーした三塁手とは、現在の福岡ソフトバンクホークスの藤本博史監督だ。


決勝の相手は、この大会で突如として現れ、日本中に“大ちゃんフィーバー”を巻き起こしたスーパー1年生投手、荒木大輔(元ヤクルトスワローズほか)の早稲田実業。荒木はここまで44回2/3連続無失点を記録中。不良(愛甲)VSアイドル(荒木)の投げ合いに、世間は沸きに沸いた。誰もが投手戦になると思っていた。


ところが1回表、愛甲が連打され、横浜はいきなり先制されてしまう。後ろを守っていた二塁手の安西健二(元読売ジャイアンツ)は、「愛甲らしくない逆玉。これはダメかもしれない」と感じたそうだ。のちに愛甲自身が語っているが、準決勝後に連投の疲れを和らげるために受けたマッサージで、強烈な揉み返しに襲われてしまったらしい。



優勝の瞬間、マウンドにいたのは努力の人、川戸浩だった


試合は1回裏に味方打線が2得点。荒木の連続無失点記録を止め、逆転に成功する。さらに2回に1点、3回に2点を奪い5-1とし、荒木をマウンドから引きずり下ろす。荒木もまた、疲労がピークに達していたのだ。しかし愛甲も肩の違和感がぬぐえず、4回に2失点、5回に1失点。5-4と予断を許さぬ展開となる。そして6回表、渡辺監督が動いた。


「ピッチャー川戸に交代。愛甲を一塁へ」


ここで3回戦以降、投げていない川戸がマウンドに上がる。不安そうな川戸に向かって、愛甲が「打ってやるから大丈夫」と声をかけた。実はこの投手交代、愛甲が自分から監督に願い出たともいわれている。ブルペンでの川戸のピッチングを見た時、肩に違和感を持ちながら自分が投げるよりも、川戸が投げた方が勝てると判断したのだと。「ワンマン」といわれた愛甲が、チームで勝利をつかみ取ろうと、みずからマウンドを降りる選択をした。チームの結束は否が応でも高まる。


6回表。川戸は先頭打者を出しながらも早稲田実業を0点に抑える。そしてその裏、1番バッターの安西がセンター前ヒット。送りバントで1アウト二塁とし、打席には愛甲。2球目のカーブを叩くと、一塁の前でバウンドが変わりタイムリーヒットとなる。「打ってやる」という、交代時の約束は果たされた。


点差が2点と開き、落ち着きを取り戻した川戸は、走者は出しつつも7回、8回と無失点で切り抜ける。そして9回表、2アウトでランナーは一塁、三塁。川戸は最後の打者に向かって腕を振りぬき、渾身の外角シュートで三振に切って取る。横浜高校、夏の甲子園初優勝の瞬間だ。マウンド上で両手を突き上げ、顔をくしゃくしゃにして喜ぶ川戸。優勝の瞬間、マウンドに立っていたのは、常に注目を集めてきた愛甲ではなく、二番手投手の川戸だった。野球の神様は最後の最後に、誰よりも努力をしてきたものに花を持たせてくれた。


しかし…。


当事者たちのその後。早稲田実業側のマンモススタンドには意外な姿も


本記事冒頭の写真をあらためて見ていただきたい。川戸がマウンドで一人、両腕を突き上げている。周囲が抱き合って喜びを分かち合う中、ぼっち感がハンパない。愛甲が言うには、本来ならマウンドへ向かうはずのキャッチャーが一塁を守っていた愛甲の方へ来てしまって、川戸が一人になってしまったのだとか。YouTubeでの発言から、愛甲やチームメイトが川戸のことを認めていたことはわかるが、なんだかんだ言っても、やはり愛甲のチームだったということなのだろうか。


当事者たちのその後だが、川戸はプロから指名されることはなく、社会人の日産自動車へと進み、6年間現役を続けた。愛甲は言うまでもなく、この年のドラフトでロッテから1位指名を受けて入団。3年で投手に見切りをつけ、1984年から打者に転向している。535試合連続フルイニング出場を達成するなど、チームの中心選手として活躍。1995年オフに中日に移籍すると、代打の切り札として1999年のリーグ優勝に貢献し、2000年限りでユニフォームを脱いでいる。


ちなみにこの試合に敗れた早稲田実業だが、野球部の一員としてアルプスタンドで応援していた一人が、のちに西武ライオンズで沢村賞投手となる石井丈裕だ。同世代に荒木大輔がいたため、なかなか登板機会が巡ってこなかったが、その話はまた別の機会に。


(文=小貫正貴)

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